白洲 次郎(明治35年から昭和60年)は兵庫県芦屋出身。終戦後、GHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁長官などをつとめた。
英国留学(ケンブリッジ)をしたが、父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌のあおりから倒産したため、帰国、昭和4年 英語新聞 ジャパンアドバタイザーで記者となり、その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(現在の日本水産) 取締役(1937)を歴任する。この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス特命全権大使であった吉田茂に出会う。この頃、近衛文麿などのブレーンとして行動。
昭和20年 外務大臣となった吉田茂の懇請で中央事務局参与に就任し、GHQと戦う。
イギリス仕込みの流暢な英語とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ / SCAP某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言われた。
昭和20年 外務大臣となった吉田茂の懇請で中央事務局参与に就任し、GHQと戦う。
イギリス仕込みの流暢な英語とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ / SCAP某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言われた。
昭和天皇からマッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた際、プレゼントをぞんざいに扱ったマッカーサーに対して激怒し、「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝り、ちゃんとテーブルを用意させた。
昭和23年、商工省に設立された貿易庁の長官に就任する。
就任にあたり優越を目的とした企業や関係者から贈り物が届いたのを知ると、知らせた者を一喝し受け取りを拒否したといわれる。
昭和23年、商工省に設立された貿易庁の長官に就任する。
就任にあたり優越を目的とした企業や関係者から贈り物が届いたのを知ると、知らせた者を一喝し受け取りを拒否したといわれる。
昭和25年、講和問題で池田勇人蔵相、宮沢喜一蔵相秘書官と共に渡米し平和条約の準備を開始
昭和26年 サンフランシスコ講和条約 全権団顧問として随行。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)、小笠原諸島の施政権返還を内容にいれた。その後政界入りも要望されたが実業界へ
昭和26年 サンフランシスコ講和条約 全権団顧問として随行。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)、小笠原諸島の施政権返還を内容にいれた。その後政界入りも要望されたが実業界へ
吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた白洲は、昭和26年 東北電力会長に就任ダム建設を推進した。東北電力退任後は、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビなどの役員や顧問を歴任。
昭和51年 軽井沢ゴルフ倶楽部 常任理事となった。メンバーは皆平等に、ビジターを制限し、マナーに厳しくプレイファストを徹底したそうである。
昭和51年 軽井沢ゴルフ倶楽部 常任理事となった。メンバーは皆平等に、ビジターを制限し、マナーに厳しくプレイファストを徹底したそうである。
0 件のコメント:
コメントを投稿